頭の中に残っていた日本語
「好きな日本語は?」転職活動をしていて、企業のホームページを見ていると、社員紹介のページにそんな質問が書かれていた。なるほど、面接でそんなことを聞かれる場合もあるかもしれない、と思った。私が好きな日本語、何だろう。 社員紹介のページの「好きな日本語は?」の欄には座右の銘のようなものが書かれているようだった。日本語に関わる仕事をしているくせに、私には「好きな日本語」がないように感じた。それは信じる神がいないようなものだと思った。辛い人生の中ですがりたくなるような言葉。闇の中で光り輝く言葉。そういう言葉が私にはないような気がした。 大学のときは歌人の穂村弘にハマってよく彼の本を読んでいた。どの本かは忘れたが、何かの集まりに行くのに早く着きすぎたか、仲のいい知り合いがいないのが怖かったか何かで、その集合場所である建物に入ることができず、しばらく建物の周りをぐるぐる回っていたという一節があった。当時の私は今よりもっと社会不適合者だった。人とうまく話せなくて、人とコミュニケーションをとるのが怖くて、人に対して自分が何をすればいいかわからなかった。これは私だ、と思った。 また彼は本の中で、「短歌を詠んだり読んだりするのは人生を解き明かす言葉を探しているから。その言葉だけで人生の謎が解けるような」というようなことを言っていた。私は穂村弘を通して現代短歌というものを知り、たまに読むようになったが、ほかの文芸作品と比べても短歌を読むときは特に「人生を解き明かす言葉」探しをしているような気分になった。 その後私の前に「人生を解き明かす言葉」が現れたかというと別に現れていない。言葉は人生を表現するものであって解き明かすものではないような気がしている。人生は複雑だからだ。 また社員紹介のページに戻って、「好きな言葉は?」を見てみる。座右の銘の他に、単に自分が好きな言葉を書いている人もいる。好きな言葉に「鼓動」を選んでいる人がいた。理由にこの言葉だけで生命、情熱、焦燥、魂を感じるから、と書いてあった。季節や時の情感を表す言葉として「夕凪」を選んでいる人もいた。そういうのもありなのだ。 少し考えてふと思い出したのが「講釈を垂れるな」という言葉だ。これは亡き祖父の口癖である。祖父は性格が曲がりくねった人で、面白い人ではあったが気に入らないことがあると怒鳴り散らす人でもあった。子や孫が何...